Displaying posts written in

2月 2012

ブログを移転します

新しいブログのURLは以下の通りです。

http://tkyk.name

いずれは、こちらのブログの記事を新しいブログにインポートして、自動でリダイレクトするように設定するつもりですが、いつになるかは分かりません。

このブログは、レンタルサーバ上のWordPressで運営していましたが、新しいブログはHeroku上でOctopressを使って書いています。まだOctopressを使いこなせていないので、デザインや機能は調整しきれていません。またHerokuは時々かなり重くなって、画面が表示されなくなる場合があるようです。そういう諸々の問題は残っていますが、実際に使いながらでないと、なかなか真剣に解決策を探す気にもなれないので、こうして公開することにしました。

ちなみに、ブログを移転しようと思った直接のきっかけは、WordPressのバージョンを3.3に上げてから、やたらと動作が重くなったことです。特に管理画面の遅さは、ちょっと我慢できないほどでした。

『コンピュータが仕事を奪う』 レビュー

本書は、大きく分けると二つの内容から成り立っている。

一つ目は、「数学的思考に基づく営為は、今後もコンピュータによって置き換えられることはない」という主張である。著者はまずこの主張の根拠を説明するために、コンピュータが計算を行う原理から説き起こして、数学とは何か、数学的思考とは何かについての解説を行う。本書の第1〜4章が、主にこの内容に充てられている。

二つ目は、 著者独自の教育論である。こちらは主に第5章で語られているのだが、客観的な根拠に基づく主張と言うよりは、むしろ経験や主観を背景とする”信念”に近い。

……

本文の構成や、語り口の熱さから見て、著者がこの本を書くことになった最大の動機は、明らかに後者の”教育的信念”に由来している。それは裏を返せば、「仕事を奪われる」という危機感は、著者自身のものではないということだ。著者はあくまで教育者として、子供たちの将来の仕事を心配しているだけなのである。

しかしそういった、悪くいえば当事者意識の薄さが、前半の内容にはプラスに働いている。そもそもまず、「コンピュータがホワイトカラーの仕事を奪う」というテーマに対して、計算機工学の基礎から始めるという発想自体が非凡である。現に危機を感じているような立場からは絶対に出てこない、遠回りのようでいてこれ以上ないくらいに正しい、そういう王道ルートである。そしてその内容も素晴らしい。常に自身が「教える立場」であることを意識しているためだろう、内容の娯楽性に引っ張られて妙な寄り道をしたり、専門外の分野に対して知ったか振りをすることもない。 控え目で、冷静で、誠実だ。

その冷静沈着な語り口を知っているが故に、第5章で教育について熱っぽく語る様は、ある種、異彩を放って見える。しかし同時に、妙に納得もするのだ。「ああ、これだけの熱情があったから、これほどの書物を書き上げることができたんだな」と。 そういう有様こそが、コンピュータには決して置き換えられない、人間の仕事の一つの形なのかもしれない。

OmniFocusによるGTDの実践3 〜プロジェクトとコンテスト・その1

だいぶ間が開いてしまったが、前回の続き。

OmniFocus が単なるTODOアプリと一線を画すのが、「プロジェクト」と「コンテキスト」の2つの表示モード(パースペクティブ)を持つことだ。プロジェクトもコンテキストもGTDの用語なので、常にGTDを意識して使っていれば自然と使い分けられるのだが、GTDそのものが初めてだと混乱しやすい。

というわけで、今回と次回は、2回に分けてプロジェクトとコンテキストについて説明する。今回は主にコンテキストについて。

OmniFocus for iPhone App
カテゴリ: 仕事効率化
価格: ¥1,700

プロジェクトもコンテキストもアクションの属性

プロジェクトもコンテキストも、画面で見るとちょうどフォルダのように見える。 だからついアクションをその中に入れて、「整理する」ような感覚で使ってしまいがちだが、それだと本来の意味からは少しズレる。GTDの観点からいうと、どちらもアクションの属性、付加情報だと捉えた方が正しい。つまりプロジェクトやコンテキストが独立して存在するわけではなく、あくまでもアクションに付随する情報、という感覚だ。

簡潔に言うと、アクションを実行しやすくするための付加情報がコンテキストで、レビューしやすくするための付加情報がプロジェクトである

コンテキスト

コンテキストとは、そのアクションが「どういう場所・状況なら実行できるのか」を示すための情報だ。コンテキストは、必ず全てのアクションに対して設定しなければならない。設定しないと、そのアクションはinboxに残ったままになる=実行可能とは見なされない。

OmniFocusの「コンテキスト」メニューを辿ると、コンテキスト毎に分類されたアクション一覧が見られる。つまり自分が「今」いる場所・状況を選べば、「今」実行可能なアクションだけが表示される。あとはその中から、実行したいものを選んで行動に移せばよい。これがOmniFocusによるGTDの、最も日常的な流れである。

コンテキストの階層構造

コンテキストは階層化することができる。例えば次のように:

  • 外出
    • X駅前
    • Y繁華街
    • 本屋

この階層構造には、「これが正解」というものはない。既に述べた通り、コンテキストの存在それ自体には大した意味はないので、とにかくアクションが実行しやすいように作れば良い。そしてもし使いにくいと感じたら、躊躇わず構造を変更しよう。

例えば私の場合、在宅で仕事をすることが多いので、最初は「自宅」コンテキストに仕事もプライベートもごちゃ混ぜに入れていた。しかしこれは非常に使いにくい。仕事中にプライベートのどうでもいいことが気になったり、オフの時間に締め切り間近の仕事が見えてしまったりする。そこで「自宅」コンテキストを分割して、仕事用とプライベート用、2つ持つことにした。物理的には1つの場所でも、内面の状況で2つに分けることもできるわけだ。

「連絡待ち」コンテキスト

GTDで言うところの「連絡待ちリスト」を実現するのに、私は「連絡待ち」コンテキストを使っている。誰かの仕事が終わるまで実行できないアクションには、この「連絡待ち」コンテキストを割り当てておいて、「完了したよ」と連絡があったら、改めて正しいコンテキストを割り当て直す。

他に「連絡待ちリスト」を表現する方法としては、OmniFocus独自の概念である「保留中」を使う方法もあると思う(プロジェクトやコンテキストの編集画面の「ステータス」で設定する)。しかし個人的には、「保留中」は何か理由があって進行不能になった場合に使うもので、連絡さえあれば実行可能な「連絡待ち」を表現するには不適当だと考えている。

複数のコンテキストを割り当てたい?

例えばブログを書く場合、自宅でMacを使って書いても良いが、外出先でiPhoneを使って書いても良い。つまり「ブログを書く」アクションには、「自宅」と「iPhone」両方のコンテキストが該当する。しかし、OmniFocusではコンテキストは一つしか割り当てられない。さあ困った。

実は簡単な解決法がある。外出先で「自宅」コンテキストを見れば良い。自宅でする作業の一部は、iPhoneでできるのだから、自宅コンテキストを見るのは完全に正しい使い方だ。

もちろん、外出先で自宅コンテキストを見れば、本当に自宅でしかできない作業も目に入ってしまう。それは本来GTDでは避けるべき状況である。しかし、当たり前の話だが、完全なコンテキスト設定などできるはずはないし、目指すべきでもない。繰り返し書いてきたことだが、GTDにとって最も重要なのは行動に移すことで、正確に整理整頓することではない。

将来、OmniFocusが複数コンテキストをサポートする可能性はなくはないが、私自身は合理的な制約だと感じている。

次回は今回の続きで、プロジェクトについて説明します。

『その数学が戦略を決める』 レビュー

本書は、統計分析の活躍を語る本である。特に、様々な意思決定に用いられる統計分析を「絶対計算」と呼んで、それらがどれだけ多くの分野で、どれだけ大きな成功を収めてきたかを、実に誇らしげに語っている。何しろ著者自身が、第一級の”絶対計算家”の一人なのだ。その強い自負と責任感が、文の調子からも伝わってくる。

絶対計算の台頭によって、人間の経験や知識や直感、そしてそれらを売りにしていた専門家たちは、意思決定プロセスの現場から弾き出されてしまった(あるいは、弾き出されつつある)。本書は、専門家たちに対する、絶対計算の優位性を、これでもかというくらいに語る。その様は爽快ではあるし、頭では正しいと理解できるけれども、やっぱり、空恐ろしさを感じずにはいられない。なぜなら、ごく普通の意味での「意思決定」とは、「自分の経験や知識や直感をもとに、専門家の意見も聞いて、自分で何かを決定すること」に他ならないからだ。

私は今、この本の感想をiPhoneで書いている。多くの人に読んで欲しいと思って、文章を推敲している。あなたはこの感想を読んでいる。きっと、何か有益な情報が欲しいと思って読んでくれているのだと思う。しかし私たちの行動は、ともに目的に対してベストではない。より適切な行動は、統計分析が知っている。

人間の直感に基づく意思決定は、全く当てにならない。本書にはそんな事例が、山ほど出てくる。「でも、絶対計算の結果を専門家の代わりに利用すれば、より良い判断ができるってことでしょう?」という、”直感的な”期待すら裏切られる。ほとんどの場合、何も考えずに、ただ統計分析に従った方が正しい。

しかし本書は、人間の直感の価値を否定する本ではない。例えばワインの事例。どのような気象条件が揃えばブドウが美味しくなるのかは、昔から経験的に知られていた。その背景にあったのは、ごく自然な、直感に基づく推論だ:「夏の気温が高ければ、実が良く熟して酸味が抜ける。雨が少なければ、果汁が実の中で濃縮される」。著者らが行った無線式車両盗難防止装置の調査も、”根拠に基づく医療”を掲げるバーウィックの根拠も、本書のその他あらゆる事例も、そうした例に加えていいだろう。みんな始まりは、ありきたりな直感からなのだ。

だから絶対計算とは、人間の直感にとっては、いわば淘汰圧のようなものだ。淘汰圧がなかった頃は、どんな役に立たない直感も、生き延びることができた。たまたま最初の事例で偏りがあったとか、言い出した人が業界の権威だったとか、全くの誤解だけど理屈だけはもっともらしいとか……いずれにせよ、誰にも間違いを証明することはできなかったから、根拠がないままに信じられていた。そこに絶対計算が登場した。誰にでも分かる形で、直感の本当の価値が示されるようになった。価値のない直感は淘汰された。そして真に価値ある直感、絶対計算という淘汰の力をも利用する直感だけが、生き延びて大きな繁栄を謳歌するようになった。その繁栄の規模は、かつては考えられなかったほどに巨大だ。

無論、この淘汰の圧力は、今後も強まり続けるだろう。コンピュータの処理能力はますます上がり、より多くのデータを、さらに短時間で解析できるようになっていく。人生の多くの意思決定が、誰かの絶対計算の結果によって覆い尽くされていくのだ。そんな世界では、絶対計算家ではない一般の人たちも、統計の基礎的な素養を身につけなければならない。それは不当な扱いから身を守るためであり、同時に自らがチャンスを掴むためでもある。その手始めとして、誰もが使える統計の武器である「2SDルール」と「ベイズ理論」を紹介して、本書は締めくくられる。

補足:プログレッサ計画はバラマキか?

本書の文庫版には追加の訳者付記があって、そこで翻訳者の山形浩生氏が、3章に登場する「プログレッサ計画」に対し、「バラマキ政策ではないのか」と疑問を投げかけている。

要するに、子供が学校に通ったらお金を(それも通常賃金の三分の二というかなりの金額を)あげるという代物だ。所得水準でいえば、日本で小学生に、月に十万円あげるから学校に行こう、と言うに等しい。(略)それだけのお金をあげれば、就学率が上がったり、学校をやめる子が減ったりするのは当然だ。

だがこのプロジェクトの中身を考えると、本当に絶対計算を使う必要があったのだろうか?(略)そしてこれは実は(日本の子供手当など問題にならないくらいすごい)ばらまき政策ではないのか?

これはあんまりな誤読だと思うから、要点を論じておこう。以下の議論は、あくまで本文に何と書いてあるかについての議論であって、現実のプログレッサ計画がどんなものだったかとは関係ない。

プログレッサとは、子供の労働力の市場価値に応じて、親に現金を給付する政策だ。本当に貧しい家庭では、親が幼い子供を働きに出す。親が子供の未来を犠牲にしてしまうのだ。それを防ぐための政策が、プログレッサである。この時点で「日本で小学生に10万円」とは全く違う話だ。

さて、直感的には、子の労働力の市場価値を越えるくらいの現金を給付すれば、問題は解決しそうに思われる。それだけなら、訳者の言う通り、絶対計算など使う必要はなかったかもしれない。しかしプログレッサの考案者たちは、もっと別のことも考えたのだ。「予算はできる限り抑えたい」「給付金が、確実に子供たちのために使われることを、保証したい」。これによって、プログレッサの実施条件は、次のようになった:

  • 現金支給額は、子供の労働力の市場価値の、約3分の2
  • 支給を受けるには、各種の健康診断を受けなければならない
  • 支給を受けられるのは母親のみ

ここまで来れば、もはや成功が明らかな政策とは、言えないだろう。仮に成功したとしても、確かにこの政策のお陰だったと断言するのは、難しいだろう。だからこそ、まず無作為抽出テストを行って有効性を明らかにしたことには、大きな意味があったのだ。もちろん、それが次の政権への引き継ぎにも大きな役割を果たしたことは、本文にある通りだ。

まとめると、プログレッサには、貧困の継承を断ち切るという、明確な目標があった。登校率や各種の健康指標という、客観的に成果を測るための指標もあった。無作為抽出テストで有効性が示されてから全国規模に拡大するという、慎重な導入プロセスをも踏んでいた。それをバラマキではないかと言うのは、流石に違うだろう。